あの時から早くも10年が経とうとしている。
残酷な悪夢であったあの日のことは、今も強く、そして痛いほどに覚えている。
蒼月帝都、桟橋のポストに、コーネリアス宛の手紙が一通だけ届いていた。
みごとな藤の花が淡い水彩で描かれた、藤色の封筒。
それには、こう書いてあった。
“我が永遠の友にして同胞のコーネリアスへ
どうやら元気なようだね。冒険者稼業というのは日々大変なものだけれど、無事なようで安心したよ。
同じホワイトガーデンにいるのなら、たまにはこちらへ来てくれてもいいのに。
君ったら冒険者になってからこちら、バイシェの村へ来てくれたのは二ヶ月前だけじゃないか。
ベルナルドやジェイソンも、いつ君が里帰りしてくれるかそわそわしているって言うのに。
ユリアとルキアの命日には、こちらへ来てくれるように頼むよ。
ホワイトガーデン大陸、白蛇の村バイシェ 一同代表 神殿神官 ウィスタリア”
「……そうか、もう10年か……」
便箋を手に持ったまま、青い空を見上げる。
妻と子の、命日。
喪失に慣れたコーネリアスにとって、唯一心を痛ませる日。
―――あの日。
新居を離れて村へ帰らなければ、自分は妻と娘とともに居られたのだろうか。
少なくとも、彼女らと一緒に死ねたことは間違いないだろう。
ランドアース大陸の冒険者たちにホワイトガーデンの存在が知られていなかったあの頃のコーネリアスにとって、ピルグリムの脅威は何よりも恐ろしいものであったから。
残されるくらいなら、ピルグリムの手にかかって死んでいたほうがまだ良かったかもしれなかった。
―――医神ラウレックよ、どうかご加護を。
コーネリアスは心の中でそう呟き、手のなかの手紙を握り締めた。
一年の三分の二は雪に閉ざされる北方の集落、白蛇の村バイシェ。
白蛇にゆかりある昔話が残るこの村は、蒼月帝都―――コーネリアスが団長を務める旅団がある浮島より、ひとつ北の浮島にある。
その村の、神殿。
「……ウィスタリア殿」
コーネリアスは小さく、目の前に居る人影に呼びかけた。相手はぴくりと身動きし、紫かがった長い髪を風になびかせながら振り返る。
「あぁ、コーネリアス。おかえり」
甘やかな笑顔でそう笑いかけられ、コーネリアスもほんの少しだけ微笑んだ。
「ただいま、でしょうか。ウィスタリア殿は、変わりがなかったようで嬉しく思います」
「君も変わりがなかったようだね。どちらかというと、少しだけ意志の強さが増した感じかな」
「……そう、かもしれませんね」
すこしだけ苦く笑うと、目の前の神官はおや、とでも言うようにかすかに首を傾げてみせた。
「前言撤回、やはり君は変わったよ。そんなふうに認めるなんて、前にはなかったじゃないか」
嬉しいことだね、とくすくす笑うかつての上司。あざやかな藤色の瞳は、いつもと変わらず光に透かされてきらきら輝く。
それでもコーネリアスが苦笑いを浮かべたままでいると、ひとしきり笑った目の前の青年は白いまぶたを持ちあげてこちらを見透かすような目で見つめてくる。
とても、楽しそうに。
「君がこうまで変わるなんて、何か……そう、誰か大切な人でもできたのかな?」
「……」
一瞬の沈黙。それは、コーネリアスの表情が苦笑いから笑顔に変わるまでの時間。
「ええ、そうですね」
ウィスタリアは、瞳に悪戯っぽい光を宿しながら、自らよりも背の低い青年を見下ろしてくすくす笑う。
「さて、我が親愛なるこの青年は、どのように美しい女性の心に思いを寄せているのやら。きみはバイシェの村にいても、女性方の注目の的だったからね」
「……そう、だったのですか?」
「あのころの村の女性方は君の噂でもちきりだったよ。そりゃあもう長い間。誰が氷の心を持つ秀麗な容貌の青年を射止めるか、で女性方ははしゃいでいたね」
「ウィスタリア殿。……けれど、私は」
「わかっているよ」
君の心はその人に捧げているのだものね、と変わらぬ笑顔で笑う上司。
そして、裾の長い神官服の端を持ち上げて、小さく一礼した。
「どうか幸せに、雪の翼のコーネリアス・スノーウィング。君が過去という檻から飛び出して、いつの日かその綺麗な翼で大空に羽ばたくことを祈っているよ」
村の取りまとめ役ジェイソンや、バイシェの村村長であるベルナルドにも逢って、コーネリアスは村の端にあるとある場所へ来ていた。
白灰色の石が並ぶ、小さな墓地。
墓地に足を踏み入れると、コーネリアスは迷わぬ足取りで墓石と墓石の間を縫って進んでいく。
やがて足を止めたのは、白石で十字架の彫刻の彫られた、大小二つの墓石。
その墓石に、刻まれた名は。
“ユリア・フォン・ガーランド・スノーウィング 生後29年没”
“ルキア・フォン・ガーランド・スノーウィング 生後2年没”
“アセディアの町のピルグリム襲撃により、此処に眠る”
「……10年か。長いな……」
薄く笑みを浮かべ、コーネリアスは墓前に膝をついてそれぞれの墓に水色かがった小さな白薔薇を供える。
花びらの先に華麗なドレープが寄ったその薔薇の花は、ウィスタリアがコーネリアスとユリアとの結婚式の日に、「おめでとう」と言って渡してくれたものだ。
彼が独自に品種改良したというその薔薇の花の名は、“スノーウィング”。四季咲きのそれは、アセディアの町にあった新居の家の窓際に毎日飾られていた。
「ユリア、ルキア」
十字架の墓石へ向かって、コーネリアスは優しく語り掛ける。かつて、彼が妻と娘にそうしたように。
「空から私の事を見ているか? あの日から10年経つが、そなたらはもう輪廻転生してこの世に再び違う人間として生まれ落ちているのかな」
コーネリアスのうなじの髪を、温かく吹く風が軽くさらう。
「冒険者になって、はや5ヶ月以上が経った。ものすごく想い出に満ちた5ヶ月で、冒険者になってから経った時間は10ヶ月ではないのかという気がする」
穏やかな笑顔で、あたたかな気持ちを込めて。コーネリアスはかつての妻子に、ただ淡々と語りかける。
そして、ふと。
「……なぁ。私は、幸せになっても、いいんだろうか?」
幾度も空に向かって投げかけたその言葉。コーネリアスは目を伏せて、言葉を続ける。
「神官には戻らない。私は私なりの道を見つけたから、冒険者として生きていくつもりだ。……それが、私の幸せだ」
そなたたちはこんな私の生き方を許してくれるのだろうか、とコーネリアスは苦く笑った。
答えは返らない。死者は言葉を持たぬから。
「……ただ、穏やかに暮らしていくことが出来ればいいんだ。旅団と、蒼月帝都の皆と」
たまに起こる戦争に身を投げて、帰ってきて生きている喜びを噛み締めて。
戦場では信頼する仲間と背中を守りあい、同盟を護り。
そしてにぎやかな祭りの日には、夜空を見上げて平和だということを認識して……。
ただ、そんな日々を送ることが出来ればそれでいい。それが、自分の幸せ。
「これ以上、欲なんて出せないよ」
コーネリアスは薄く笑う。そして立ち上がり、マントの裾を翻した。
「また来るからな、ユリア、ルキア。そのときはもっと長く、冒険の話をしてあげよう」
飛び切りの笑顔を残して。踵を返し、コーネリアスはその場を立ち去った。
幸せ、ということ。
それは、コーネリアスにとって穏やかな日常が続くということ。
大切な仲間と笑って過ごすことが、コーネリアスにとっての幸せ。
ちっぽけだけれども、大切な。
これ以上の幸せなんて、望まないから。
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